Artists
1871年 | パリに生まれる |
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1885年 | 父の勧めでステンドグラス職人のもとに徒弟奉公に出る、古いガラスの修復に従事しつつ、夜は装飾美術学校で素描を学ぶ |
1890年 | 画家になる決心をしてパリ国立高等美術学校に入学、エリー・ドローネの教室に入る |
1892年 | ドローネの後任にギュスターヴ・モローが就任し、ルオーをはじめマティス、マルケ、マンギャンらの指導にあたる、キリスト教主題の作品をレンブラント風に描く |
1894年 | 「博士たちの間の幼きイエス」によりシュナヴァ-ル賞受賞 |
1895年 | ローマ賞に再度応募し、油彩画《死せるキリストを悼む聖女たち》で挑戦するが落選 審査結果に不満を抱いた師モローは美術学校を退学するようルオーに勧める 初聖体拝領を受ける |
1897年 | フランス美術家協会サロンに《風景》と《水浴の女たち》を出品 |
1898年 | ギュスターヴ・モロー死去 |
1903年 | パリにギュスターヴ・モロー美術館が開館、モローの遺言により館長に任命される サロン・ドートンヌ創設のため、マティス、マルケ、ピオらとともに尽力し、第一回展に出品 この頃よりサーカスの情景があらわれる |
1906年 | パリの画廊ベルト・ヴェイユにて展覧会 |
1910年 | パリのドゥリュエ画廊で初めての個展 |
1913年 | ルオーの陶器に興味を抱いた画商ヴォラ-ルが、今後の全作品を購入するよう申し出る |
1917年 | 画商ヴォラールと専属契約を結ぶ、画商は770点の作品総額4万9150フランでルオーから買い取る |
1918年 | 水彩やグアッシュを描かなくなり、油彩に専念する キリスト教を主題とする絵が多く描かれ、特にキリストの受難が増え、色彩は豊かになる |
1922年 | パリのバルバザンジュ画廊にて個展 ヘンリー・チャーチの小冊子『道化師たち』の表紙絵や挿絵を3点描く |
1924年 | ドゥリュエ画廊で大回顧展が開催され、油彩画88点と陶器8点を出品 |
1925年 | レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を授与される |
1926年 | 石版画による挿絵6点の入った『回想録』が刊行。『フュナンビュル』誌に表紙絵や挿絵、テキストを寄せる |
1927年 | 銅版画集『ミセレーレ』完成(刊行は1948年) 『悪の華』のための銅版画制作 |
1929年 | 日本人コレクターの福島繁太郎とルオーとの最初の出会い、以後福島宅を訪れて制作 バレエ・リュスの演目「放蕩息子」(音楽はプロコフィエフ)のための舞台美術と衣装を担当し成功をおさめる 自作の詩に6点の石版画と50点のデッサンが入った『伝説的風景』を出版 |
1930年 | 版画集『流れる星のサーカス』、『受難』を制作 |
1937年 | パリ市プチ・パレ美術館で回顧展開催、42点の油彩画を出品 |
1938年 | ニューヨーク近代美術館で版画作品展 |
1941年 | 40年から41年にかけてアメリカ各地で巡回展 |
1943年 | ルオーの詩に15点の色刷り複製図版の入った『ディヴェルティスマン』刊行 未完成作819点の返還を求め、ヴォラールの相続人たちに対して訴訟を起こす |
1944年 | 『ひとりごと』刊行 |
1945年 | ニューヨーク近代美術館で大回顧展、161点が出品される |
1946年 | ロンドンのテート・ギャラリーでブラックとルオーの2人展開催 |
1951年 | レジオン・ドヌール3等勲章(コマンドゥール)を授与される この頃より黄色味を帯びたキリスト教的風景画が現われ、平和で神秘的な情景が多数描かれるようになる |
1952年 | ブリュッセル王立美術館とアムステルダム市立美術館が回顧展を開催 パリ国立近代美術館で大回顧展 |
1953年 | クリーヴランド美術館、ニューヨーク近代美術館、ロサンゼルス州立美術館、東京国立博物館、大阪市立美術館で回顧展ローマ法皇ピウス12世よりグレゴリウス3等勲章(コマンドゥール)を授与される |
1954年 | ミラノ市立近代美術館で回顧展 ローマの聖ルッカ国立アカデミーの通信会員となる |
1955年 | イエルサレム国立美術館が展覧会を開催 ローマ法皇ピウスよりグレゴリオ大勲章を授与され |
1956年 | 教育功労勲章(パルム・ザカデミック)を授与される。タルン県アルビのロートレック美術館で展覧会 |
1958年 | 逝去、サン・ジェルマン・デ・プレ教会で国葬 |